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いきなり会津若松~近藤勇の墓《天寧寺》 [時代・新選組]

busstop.jpg鶴ケ城を後にして次に向かうのは、天寧寺にある近藤勇の墓。会津に来たら是非訪れてみたかったところなんです。

ここにある近藤勇の墓は会津藩によって建立されたもので、新選組は会津藩の松平容保公が京都の治安維持のため京都守護職にあった時に、会津藩の支配下として幕府のため、朝廷のために大いに働いたんですね。会津とはつながりが深いんですね。

鶴ケ城前のバス停から周回バスのハイカラさん号に乗って十数分でしょうか(感覚ですから、実際はもっとかかってるかもしれません。)。奴郎ヶ前(やろうがまえ)停留所で下車。

周りは景色がひらけた所でここからは徒歩ですが、ちゃんとした地図もないのに辿りつけるか不安になってきた^^;でもよく見ると、手作り風の案内版なんかもあって、特に問題はなさそうです。

広いバス通りから一本裏に入ったところにも分かりやすい説明板があるので、道は間違いないこの先だなと確信。本来ならもっと観光客がいるのかもしれませんが、原発事故の風評被害の影響かほとんど人がいません。実際近藤さんの墓を目指して来ていたのは、自分と奥さんと、もう一人若い女性だけだったようです。寂しいですねぇ。2004年の大河の時にはかなりの人が訪れていたようです。

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しばらく行くと石段があって、この先に本堂があります。

entrance2.jpgentrance3.jpg

本堂の前に案内図がありましたが、これによると近藤さんのお墓はまだこの上にあるようですね。時間があれば本堂でお参りを済ませてからこの先を登りましょう。

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ここから先はこのような山道です。傾斜がきついところもありますし足元が悪いので、必ず歩きやすい靴を履いて来ましょう。眼下の景色はいいんですけどね、ちょっと寂しい場所ですよ。

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そしていよいよ到着しました。左側が近藤さんのお墓です。右には土方さんの碑ですね。近藤さんの墓は、会津で療養中の土方が請願して会津藩が建立したもので、墓には京都三条河原から奪い返してきた近藤の首をが埋まっているとか、遺髪が埋まっているとか伝えられています。

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NHKの大河ドラマ「新選組!」では、斎藤一が松平容保の命でさらし首になっていた近藤の首を京都三条河原から奪い返したことになっていました。近藤勇の首は実際に何者かに奪われているので、もしかしたらそうなのかも知れません。そしてこの墓に埋められたのかも知れません。・・・わかりませんね、でも一つ確実なのは、戊辰戦争の際に土方歳三が実際にここへ来てこの墓を立てたという事実。墓の前にも立っていたであろうという事実。そして時を隔てても、その同じ場所に今自分も立っているということ。そう思うと鳥肌がたつような不思議な感じがしますよ。そんなことを感じながら、少し陽が傾いてきた山道を下ったわけです。

これから行こうと思われる方は、次のことに注意して訪れてください。

  • この辺は人気がありません。ひとりだけでの参拝は特に注意して下さい。道は山道ですので足を踏み外したりして動けなくなったら大変です(ちょっと大げさ^^;)。
  • また、女性一人での参拝は気をつけてください。特に暗くなりそうな時間に行くのはやめたほうがいいです(これはホント)。

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憲政記念館《特別展示・政党政治への道》 [時代・新選組]

憲政記念館は議会制民主主義について、認識を高めるために設立されたもので、常設展示の他時々興味深い特別展示をしています。

今回は11月18日~12月10日まで、政党政治への道~議会開幕から本格的政党内閣誕生~が開催中。帝国議会が開設され、「民党」と「藩閥政府」の対立から憲政擁護運動~原敬内閣に至るまで、関連資料の展示がされています。

自分の目的は日露戦争関係の資料を見るため^^。

日本海海戦の時の、バルチック艦隊発見の電報文の本物です「敵艦隊見ユ」。文末の「本日天気晴朗ナレ共浪高シ」の有名なくだりは、秋山真之参謀が付け加えたもの。艦隊発見だけを伝えただけではなく、この文章のおかげで状況が手に取るようにわかるという。天気晴朗は視界良好、砲撃に障害がなく、敵を逃がすことがない。浪高しは海は荒れていて狙いは付け難いが、練度に勝る日本軍に有利。また、波が高いために水雷攻撃はせずに砲戦をもって戦闘を行う。ということがわかるのだそうです。

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またお兄さんの秋山好古の、戦地から子ども宛に出した手紙も展示されています。坂の上の雲にもこの手紙の内容が書かれていて、ここでこの本物の手紙を見られるなんて思いませんでした。どれどれ・・・「土産はないが、捕虜を沢山松山に送る」という内容が書かれていて感激。

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入場無料で、しかも100ページ程度の展示物紹介の小冊子がもらえます。上の2枚の写真はすべてこの冊子から。12月10日までと残り会期は少ないですが、なかなか面白いものです。

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永田町で降りて行ったのですが、ここは民主党本部も途中にあったりして警備の警察官が多く、ちょっと道に迷ってたりすると声をかけられてしまいました。挙動不審に見えたんでしょうな^^;


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なんて迂闊な・・・ [時代・新選組]

坂の上の雲。
年末のNHKスペシャルドラマをきっかけに、全8巻の原作に手を出してしまったわけです。

いえいえ、それが「迂闊なやつめ」ということじゃないんです。読み始めてみるととても面白くて、わくわくしながら読んでいるのでさくさくと4巻に突入。もっとも通勤時だけなので、ペースとしてはそんなに早くはないんですけどね。

ほとんど知識のない日清・日露戦争の話。舞台になる朝鮮半島や中国の地理的なことはほとんどわからず。人物についても、戊辰戦争で活躍してそのまま軍人になった有名な方は知っていますが、これもほとんどわからず。主人公の秋山兄弟すら、ドラマを観るまでは知りませんでしたからね~。 これも「迂闊なやつめ」と言われるところなんですけどね。

sakakumap.jpgそんな迂闊な人のために、巻末には地図や軍の編成表などの資料が載ってるんですが、今のいままでこれに気が付かずに読んでいました^^;間抜けです(泣)。位置関係や、人物の相関についてぼんやりしたまま読んでいました。ばっかですよねー(泣)。これに気が付いていれば、3倍は楽しめたのに。4巻からはフル活用しよっと(今さら遅いわ)。

こういう歴史小説は、関連資料が多いと楽しく読めますよね。ビジュアル的なものはとても助けになります。軍艦の写真、当時の軍服、装備、兵器・・・。こんな資料本があればさらに楽しく読めそう。さすがに人気ドラマだけあって関連本はたくさん出ていますね。

 

『坂の上の雲』歴史紀行 (JTBのMOOK)

『坂の上の雲』歴史紀行 (JTBのMOOK)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ジェイティビィパブリッシング
  • 発売日: 2009/11/10
  • メディア: ムック

写真で読む「坂の上の雲」の時代

写真で読む「坂の上の雲」の時代

  • 作者: 近現代史料編纂会
  • 出版社/メーカー: 世界文化社
  • 発売日: 2009/11/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

「坂の上の雲」がよくわかる日清・日露戦争のすべて (SAKURA・MOOK 27)

「坂の上の雲」がよくわかる日清・日露戦争のすべて (SAKURA・MOOK 27)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 笠倉出版社
  • 発売日: 2009/11
  • メディア: 単行本

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坂の上の雲に宮古湾海戦の件が [時代・新選組]

年末のNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」があまりにも面白かったので、ついに原作に手を出して読み出しているのですが、第1巻の東郷平八郎(ドラマでは渡哲也さんが演じていましたがかっこよかったなぁ)の履歴紹介のくだりで、新選組の土方さんも参加した宮古湾海戦の話が出てきました♪

これは明治2年、新政府軍の最新鋭艦「甲鉄」を奪取すべく、幕府軍艦の回天、蟠竜、高雄が箱館港を出港。回天艦長は甲賀源吾、そして新選組の土方歳三らも乗艦していました。

この作戦はもともと無茶だったこともありますが、さらにことごとくついていなかった。箱館港を出港してからは暴風雨に会い艦隊は離散。回天と高雄は合流しましたが、高雄は機関故障のため結局突入は回天だけで、土方率いる陸兵の突入作戦に切り替えました。当初の予定は、蟠竜、高雄で左右から甲鉄を挟むようにして接舷し、抜刀した兵士で一気に艦を制圧して奪う計画だったんですがね。

回天は接舷しない予定だったのですが、結局この回天が突入するというさらに無茶な計画になってしまいました。回天は外輪船のため、それが邪魔になって横になって接舷できず舷側から突入することは不可能。艦首を接舷させて突入することになるのですが、突入口が狭いことと回天の艦首と甲鉄との高低差が3メートルもあり、突入部隊が飛び降りるのをためらってしまうわけです。3mの高さというと相当高く感じるのも無理ないですよね。その間に甲鉄のガトリング砲の標的になってしまうのです。

この宮古湾海戦に東郷平八郎は薩摩藩砲術士官として参戦していて、その時の紹介として新選組の土方歳三などとこの宮古湾海戦の話が出てきました。東郷は「艦尾の機関砲をあやつってこれを撃退した。」と。

坂の上の雲は明治の話ですがまだ幕末の色を濃く残している時代なので、興味深く面白く読んでいけてます^^。幕末の話がこのように出てくるとさらに面白い。

結局この宮古湾海戦は、甲鉄奪取もかなわず旧幕府軍は大敗して引き上げています。回天と蟠竜は何とか箱館に帰還していますが、高雄は敵に追われて自沈。旧幕府軍艦は回天と蟠竜だけになってしまい、さらに海軍力に差がついてしまったわけです。そもそも榎本艦隊の旗艦「開陽」が座礁沈没してしまったため、戦力差を縮めようと計画した作戦でしたが失敗に終わり、戦力差は決定的になってしまいました。

甲鉄は幕府がアメリカに発注していた船だったはずで、納品しに来たら日本は内戦状態で明治政府が受け取ったようなもの。旧幕府の箱館政府の面々としてはなんとも悔しい思いだったはず。それもあってこの奪取作戦を敢行させたのですが、成功していても降伏を少し遅らせたくらいだったか。


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坂の上の雲第一部終了~ [時代・新選組]

ウエンディーズの食べ納めをしてきました。
やはり今日も店の外にまで長蛇の列ができていていました。

ハンバーガーはもちろん美味しいけど、ここはやっぱりチリでしょう[ぴかぴか(新しい)][ぴかぴか(新しい)]
Lサイズを食べてみようかと思いましたが、今日もMサイズにしちゃってちょっと後悔。やっぱりLにすべきだった[爆弾]
これからはどこで手軽にチリが食べられるんだろう;;

◇   ◇   ◇

さて、先日27日にドラマのほうの坂の上の雲の第一部が終わっちゃいました。続きの第二部は来年末・・・がおー[むかっ(怒り)]

出てる方々は皆さん渋いですねぇ。軍服というのはこうもかっこよく見えるものなんですね。ロシアにいた八代六郎鶴ちゃん、広瀬藤本隆宏、かっこいいですねぇ。ダンスもできる柔術も心得てる容姿もかっこいいとくれば、駆け出しのアジアの小国の日本人であってもロシア人の女性はステキと思われたのでしょうか。それにしても広瀬さんをダンスに誘ったロシア人のきれいな娘さんは、直前同じロシア人男性からの誘いを、「疲れているから」と断ってその足でそのまま広瀬さんをお誘いしている。

日本人に負けたとなっちゃ相当の屈辱的だったでしょうね。そのあとさらに挑発して逆に投げ飛ばされるし^^;この先日露戦争でも日本には苦渋の思いをさせられていますし。

また、米西戦争の観戦武官としてもアメリカ滞在中もっくん真之に対して、ロシア人武官が旅順の地図をくれないかとそそのかすんですが、きっぱりと言い返すところは胸がすく思いでしたね~。日清戦争で手に入れた遼東半島を、三国干渉で返還させられていますし、それが実際はロシアが不法占拠している状態なわけで、日本としては怒りが納まらない状況ですから。国民感情も盛り上がってロシアとの衝突やむなしという方向へ傾いてゆくわけですな。

はぁ~俄然面白くなってきたのに、続きはまた来年末!がおー!吼える吼える^^

先日大人買いした原作を3年かけないで読むようにしようっと^^。幸いこの小説のほうも面白くて、さくさく読めています♪

◇   ◇   ◇

NHK松山放送局にも坂の上の雲の特集ページが大々的にあります。こちらはこちらで、地元松山密着の情報を発信していて面白いです。「あなたの雲写真大募集」という企画もあって応募しちゃいました^^;応募者全員坂の上の雲グッズがもらえるらしいですよん^^。


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立会川の龍馬 [時代・新選組]

ryoma_tachiaigawa.jpg京急線の立会川駅前に立つ龍馬。

この辺りは当時土佐藩抱(かかえ)屋敷があり、ペリー来航の嘉永6年(1853)にこの場所に砲台建造の許可を幕府から得て、翌嘉永7年(1854)に大砲8門を擁する浜川砲台(現在は水道局のポンプ場)が造られました。

未確認ですが嘉永7年の2月9日に大砲の設置が完了し、2月中に長さ六間、幅二間半、高さ九尺の防弾用の堤も完成。当時江戸で剣術修行中だった龍馬も、藩の命令でここでの警備に一人の兵士として参加することになったわけです。しかしながら幕府は17日に土佐藩守備兵へ退去命令を出したため、龍馬が最初からここの警備にあたったとしても10日程度ということになりますかね。

今や周辺は埋め立てられて当時の面影はありませんが、宅地造成が行われた際に、浜川砲台に使われたとみられる敷石が多く見つかり、それを記念して高知市からこの龍馬像が贈られたのだそうです。この地に龍馬の像があるのは、そのような縁に因るものなんですね。

最初は外国人の首をとってみせると手紙に書いていた龍馬も、黒船を目の当たりにしたこの時から、物事を大局的にみる力が人より抜きん出てきたのかもしれませんね。だとすればここに龍馬の像が立っているのも、まんざらでもないわけか。

さてこの像、ちょっと前までは駅の改札を出てまん前にありましたが、駅を出ると左側にちょっと行ったところに立っています。ちょっと立派になりましたよ、台座が♪次の大河が龍馬伝ですしね、これから訪れる人が増える・・・かな。あやかりでも地元はチャンスぜよ。

立会川の龍馬像

 


旗本御家人 [時代・新選組]

一昨日の土曜日に都内の地下鉄に乗ったときに、車内ポスターで気が付いた。

国立公文書館の特別展で、「旗本御家人-江戸を彩った異才たち-」をやってる。江戸時代の旗本や御家人たち。将軍に拝謁できるのが旗本、できないのが御家人。幕府の身内でさえ知らないくらいのさまざまな職務があったらしいのですが、その中のいくつかを公文書館にあるたくさんの資料から、エピソードをまじえながら紹介されているらしい。

これは行ってみたいなということで、予定外でしたが早速行ってきました。地下鉄東西線の竹橋で降り、毎日新聞社のある出口から出ると歩いて5分もかからないところに国立公文書館がありました。交通量が多いのは仕方がないですが、このあたりは皇居の外周なので、道路も景色も広々としていて空も広いし気持ちが良いですね。

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さすが国立、入場は無料!入口の受付で、展示資料の小冊子ををもらい、これがオールカラーの36ページのちょっとした資料集なのでこれも嬉しい!

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それと、なんと音声ガイドも無料貸し出ししています!これはかなり嬉しい。美術展などでは、この音声ガイドの威力には感激しているので、これはもちろん借りました^^。これから行かれる方は、是非音声ガイドも借りたほうがいいですよ。展示会場は1階の展示場を、壁に沿ってぐるりと一回りするような順路です。

旗本御家人と一口に言っても、身分や格差の違いがあったでしょうし、さまざまな職務に序列や役職段階があったわけです。その中で昇進争い、立身出世のため懸引きなど、今の時代でも変わらないことがあったようです。ですがこの特別展のテーマにもあるように、「江戸を彩った異才たち」ですよ。ちょっと変わった人とか、こんなことをした人がいたとか、こんなのがあったというのを紹介しています。

面白かったので少し紹介します・・・

幕府の役職や在職者の情報をまとめた武鑑と呼ばれる武家名鑑。旗本の役職、住まい、石高、使用人の名前までが載っています。個人情報もいいとこですが、なんと民間の本屋が出版しています。これは新版改正弘化武鑑というもの。江戸時代も泰平になると、町民と武士との間商い関係も密接になっていたため、このような情報が有用だったようです。

これを出版した出雲寺万次郎という人間は、老舗出雲寺の当主で、幕府の御用達町人(書物師)。出雲寺は幕府の書物方に属して、将軍の文庫である紅葉山文庫の運営や、昌平坂学問所編纂の出版にもたずさわっていたそうです。でもこれって今で言う情報漏えいにあたりますよねぇ。

また、大久保彦左衛門の逸話などの記録もあってなかなか興味深いですよ。大久保彦左衛門といえば、テレビドラマでもよく登場しますし、一心太助の物語にも出てくる型破りな痛快なキャラクタとして描かれていることが多いですよね。実際はどうか、実際もその歯に衣を着せない物言いや行動はまんざら後世が作り出したものではなく、なかなか一風変わった人であったようです。そのことがわかる記録が紹介されています。天下のご意見番の大久保彦左衛門は、ノンフィクションだったわけですね。

江戸時代前期の有名旗本が大久保彦左衛門だったとすれば、江戸中後期はなんと言っても長谷川平蔵、鬼平が江戸では人気があったようです。火付け盗賊改の長官だった平蔵は、池波正太郎の鬼平犯科帳で今もとても有名ですよね。町奉行の手に負えない凶悪犯の取り締まりに活躍したのですから、その様子を「町々にても平蔵様、平蔵様と嬉しがり候由」と記された記録があります。

自分も中村吉右衛門さん演ずる平蔵が活躍する鬼平犯科帳が大好きなんで、放送のたびにどきどきわくわくして観たもんです。今でも年に1回はスペシャル版の新作を放送してくれますが、中村吉右衛門がはまりやくでどうにもかっこいいので惚れ惚れですよ^^。

あっと、脱線しました^^;。長谷川平蔵の功績はこの捕り物よりも、人足寄場の設立です。江戸の無宿や浮浪人を一箇所に集めて、犯罪者化防ぐとともに、彼らに職業教育を施して更正させるシステムを作り出したのですから。今回の展示ではそれを命じた松平定信の文書や、人足寄場の設立のために私財を投じたため、長谷川平蔵が窮しているのを町民が気の毒に思っているという記録も紹介されていました。

他にもたくさんの記録が紹介されていて、おかたい話しから、河童の目撃談などのオカルトや不思議な話に関するものまで多種多様です。いつの時代でも、うわさや不思議モノというのは人の興味を引くものなんですねぇ^^。さまざまな記録や紹介を見ていると、今も昔も人のやることは、本質的に変わらないものなんだなぁと思いますよ。なかなか面白い展示でした。これは耳嚢(みみぶくろ)という、根岸備前守鎮衛(やすなり)が約30年にわたってかきためた全10巻の雑話集で、怪談奇譚や武士や庶民の逸事が書かれているようです。

これは現在でも手軽に読めるみたいです。珍談・奇談を満載ということでちょっと興味津々

耳嚢〈上〉 (岩波文庫)

耳嚢〈上〉 (岩波文庫)

  • 作者: 根岸 鎮衛
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/01
  • メディア: 文庫
耳嚢〈中〉 (岩波文庫)

耳嚢〈中〉 (岩波文庫)

  • 作者: 根岸 鎮衛
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/03
  • メディア: 文庫
耳嚢〈下〉 (岩波文庫)

耳嚢〈下〉 (岩波文庫)

  • 作者: 根岸 鎮衛
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/06
  • メディア: 文庫

で、いつも思うことは、古文書の読めなさがもどかしい・・・大筋でなんとなくわかるものもありますが、こういう資料・史料の類はきっちりと理解したいじゃないですか?ですが情けないことにほとんど読めない・・・ううう^^;

会期はあと少し4/23までなので、ご興味のある方はいかがでしょうか。お堀の桜は散ってしまいましたが^^。
備え付けの申し込み用紙で申し込むと、今後の特別展の案内を郵送してくれるらしいので申し込んできてしまいました。楽しみ♪

国立公文書館

 

 


やっぱり・・・時代カテゴリじゃなかった? [時代・新選組]

もう・・・帰りが遅いと、こんな時間にこんなことしたくなりますな^^;。

山本正之さん、大好きなんです^^

そうそう、タイムボカンシリーズの音楽とか、寛平ちゃんの「ひらけ!チューリップ」とか、鶴光さんの「うぐいすだにミュージックホール」とか、中日ドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ!」とかとか、を作曲した人といえば、「おぉ!」とわかってくれるでしょうか^^。ちょっと例が古いか^^;確か51年生まれだから、今年58歳になるのかぁ、いやいやでも正之節絶好調~。

CDにも入っていない曲もかなりあるらしいし、CDすら今や手に入りづらい。大分前に出た全集みたいなCDは欲しかったんですが、当時はとても買えない値段でした。最近はYouTubeやらニコニコとかあるから便利ですねぇ、探してみるもんですね~。

で、今夜は「戦国武将のララバイ」。歌詞もなかなか、動画もナイスですやん。
ダジャレがぶっ飛んでふざけてるようですが、実はメロディもかっこいいんですよね。なかなかうまいこと歌ってますね♪



家康殿~英会話を習い始めたとのことですが本当でござりまするか~?イェ~ャス

◇  ◇  ◇

ちなみにこちらは原語版なので、なかなか聞き取れません。ちょっとだけ歌詞も違いますけどね^^;



山本正之最高~
あぁ~ライブ行ってみたい^^

こんなことやってる場合じゃない寝ないと^^;

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怒涛の幕末維新をみなければっ [時代・新選組]

USJ記事の#3を書く前に、AkiさんのGo Plain!の11/16記事で耳寄りな情報を発見。

憲政記念館で、怒濤の幕末維新-攘夷・開国から民撰議院設立建白書提出へ-特別展画展 が開催されてると。特別展のこのリンク先は、あんまりやる気のないサイトデザインなのですが展示内容がすごい。

この展示内容を見てみると、これがすごい!お宝だらけじゃないですか!好きな人にはこんなのってたまりません。これは絶対行かないと、えぇ行かないといけませんね。

主な展示品は

  • 安政5年、老中堀田正睦がアメリカとの通商条約調印の了解を得るために京都へ行ったが、朝廷の説得に失敗した際に書き送った堀田正睦書状(公家たちが未だに万国の形勢を理解せず討論の甲斐もない・・・なるほどなぁ)
  • 安政の大獄のでの処罰評議文書
  • 1863年の生麦事件の賠償金受け取り証書、実物ですよこれ~
  • ご存知新選組隊士の永倉新八が書き遺した浪士文久報告記事。本物が見られるとは!
  • 倒幕の密勅~1867年に長州藩に出された勅状。これは重要文化財だそうです(そうでしょうね)
  • 徳川慶喜の陣羽織
  • 東征軍旗~西軍が使用した菊の御紋の入った旗ですね。

などなど・・・教科書や、資料集でしかみたこともないような品が、自分の目で見られるんですよ。こんなわくわくすることないです。

入場料は無料で、しかも来館者には100ページほどの小冊子がもらえるとか。さすが国立。税金はこういうことに効果的に使うが正しいもの。定額給付金などと無策に2兆円もばら撒くのは理解できない。おっと脱線^^;

とにかくこれはこのままスルーできない展示ですね。


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円通寺の寛永寺旧黒門 [時代・新選組]

久々の歴史カテゴリなので書く前から緊張~^^;

荒川区にある円通寺に寄って来ました。今年始めに書いた記事の中で、彰義隊の墓と寛永寺の黒門が移設されたところとして、是非行ってみたいと思っていたところです。

場所はJR南千住から徒歩10分、地下鉄日比谷線の三ノ輪、都電荒川線の三ノ輪橋からだと約5分ほどの国道4号線沿いにあります。

円通寺~寛永寺黒門/彰義隊士の墓

 

南千住駅前の回向院もそうですが、古風なお寺をイメージしていると全然違うことにちょっとびっくりするかもしれません。

国道に面している円通寺。その黒門は通りから少し奥まったところに静かにありました。
一応フェンスで囲んであるにしても、貴重な文化財の割りには無造作に置いてあるような気がしましたが、区の文化財ですとこのようなものでしょうか。個人的には戊辰の決定的な上野戦争の歴史的遺物なのですから、区レベルの文化財にして置くのは惜しい気もしますが。

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さて、見て驚くのは弾痕の多さ。激戦だったと伝えられる通りだったようです。この黒門は寛永寺の8つあるうちの一つの門で、今でい言うと京成上野駅出口に近い場所にあった門。この辺りから上野公園に入り坂を上がると、ほどなく西郷さんの像が建っています。そう、この辺りが彰義隊が激しく応射していたという山王台です。ということは黒門と山王台はかなり近かったということになりますね。

西郷が指揮する部隊がこの黒門口を突破すると、彰義隊は一気に瓦解したというのですがなるほど。黒門口は要だったようですね。

上野公園の彰義隊の墓の場所にある説明には当時の絵が載っています。この絵は小川興郷が後に画家に描かせたもので、雨中の激しい戦いの様子が描かれており、他に残る錦絵と違い史実に忠実とされています。

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この絵の後ろに描かれている門が、この黒門だと思うのですが、そう思ってこの実際のこの黒門を眺めるとなんとも言えない感慨があります。下の写真からも弾痕が見て取れると思います。

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黒く丸く見えるのはほとんど弾痕です。厚い柱の部分以外の部分の弾痕は、ほとんどが貫通していて当時の銃の威力も相当なものだったようですね。

 kuromon6-320.jpgkuromon5-320.jpg

角度によって写しにくかったのですが、左の写真の真ん中辺りの弾痕は後ろの光が見えると思います。このように柱以外の弾痕はほとんどが貫通痕。

最後に黒門の後ろ側から、守備していた彰義隊の目線で一枚。 刻々と迫る決戦を前にして、彼らの胸の中はいろいろな思いが駆け巡っていたでしょうね。140年も前、いえいえたった140年前の出来事なんですよ。

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上野公園にある彰義隊の墓の場所は、彰義隊戦死者を火葬した場所。ここには2003年まで、管理棟と上野彰義隊資料室があったそうです。今は残念ながら墓所しかありませんが、展示されていたものは台東区教育委員会が保管しているそうです。また展示資料のコピーや名簿の一部、小川興郷関係の未公開(!)の資料は、ご子孫であられるの小川潔氏が保管されているそうです。

小川潔氏は「しのばず自然観察会」を主宰しており、そのホームページには彰義隊墓所のページがあります。2003年に閉鎖になった資料室の「さよなら展示」での展示資料が、バーチャル展示室として公開されています。中には戦死した隊士の妻が、放置された遺体をどうか片付けて弔わせて欲しいと勝海舟に宛てた本物の手紙などもあるようで、是非とも公開の機会をつくっていただきたいと、台東区にお願いしたいものです。

さて、弾痕でお蔵入りになっていた写真を思い出しました。時々出かける先の谷中に、これも彰義隊関連ですが弾痕のある寺があります。日暮里駅より徒歩3分のところにある経王寺の山門です。

経王寺

 

これは上野戦争後敗走した彰義隊士を匿ったために攻撃されたと言われています。黒門とは違って数発の弾痕しかありませんが、今でも使われてる門ですので実際に近くでも見ることが出来ます。

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上野周辺の庶民は徳川様びいきですから、敗走した彰義隊士を体をはってかくまったったこともあったようですからね。

なんか彰義隊関係の史料・資料を探したくなってきますね~。彰義隊だけでなく、当時の上野周辺の様子なんかはとても興味がわいてくるところですね♪

 


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